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殺されるのか [follow me(フォロー&ついてきて!)]
肺に管を入れた。痛くて横になれない。痛み止めの薬持ってきた。この馬鹿どもは薬しか対象法を考えられんのか?俺は馬鹿父親と馬鹿主治医と馬鹿看護師にやはり殺されてしまうのか。
予定調和を感じる政局報道 [政治]
今日もマスコミでは政局予想の話題が始まり、
やがてその時期がきて
予想したパターンの内のどれか一つの通りに政局が展開し、
また政局予想の話題が語られ、
そしてその予想した内のどれかのパターンで政局が進んで行く。
そうやって予定調和のなか日本政治はマッタリと続いて行くのですね。
やがてその時期がきて
予想したパターンの内のどれか一つの通りに政局が展開し、
また政局予想の話題が語られ、
そしてその予想した内のどれかのパターンで政局が進んで行く。
そうやって予定調和のなか日本政治はマッタリと続いて行くのですね。
社会保障の整備はそっちのけの消費税増税なんだってさ [政治]
26日「消費税増税法案」とともに衆議院本会議で可決された「社会保障制度改革推進法案」は「社会保障抑制を推進するものだ」とtbsラジオの『dig』で言っていた。
「当初、社会保障を充実させる代わりに消費税を上げるという話だったのにいつの間にか話が違ってきているようだ」ということのよう。
自民党は相も変わらず「自助→共助→公助」を社会保障の理念としているらしい。寝ぼけているなぁ。
でも、この感覚って多くの日本国民の感覚と一致しちゃうのでこまっちゃうんだよねぇ。
経済発展のために道路や橋は必要なインフラだとしてやたら造りたがるのに、国民生活を底支えする社会保障の充実には消極的だなんて、なんておばか。
今必要なのは道路や橋ではなくて、生活スタイルを補完する介護対策や子育て支援、貧困の解消であるはずなのにねぇ。
そうしないと国の基盤そのものが危うくなるのに。
「当初、社会保障を充実させる代わりに消費税を上げるという話だったのにいつの間にか話が違ってきているようだ」ということのよう。
自民党は相も変わらず「自助→共助→公助」を社会保障の理念としているらしい。寝ぼけているなぁ。
でも、この感覚って多くの日本国民の感覚と一致しちゃうのでこまっちゃうんだよねぇ。
経済発展のために道路や橋は必要なインフラだとしてやたら造りたがるのに、国民生活を底支えする社会保障の充実には消極的だなんて、なんておばか。
今必要なのは道路や橋ではなくて、生活スタイルを補完する介護対策や子育て支援、貧困の解消であるはずなのにねぇ。
そうしないと国の基盤そのものが危うくなるのに。
本当に「体力の衰え」ってあるんだねぇ [follow me(フォロー&ついてきて!)]
「本当に“体力の衰え”ってあるんだなぁ」と
日々実感している。
ちょっと前までは近所のコンビニに歩いて買い物に行けてたのに
今ではどうやら無理らしい。
いや~、本当に体力って衰えるものなんだねぇ!!
日々実感している。
ちょっと前までは近所のコンビニに歩いて買い物に行けてたのに
今ではどうやら無理らしい。
いや~、本当に体力って衰えるものなんだねぇ!!
アマタツ!! [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
「“天達”が彫り物すれば、これがホントの
“アマタトゥー”」。
【大阪市職員と市長方針の関係で思いついた洒落】
“アマタトゥー”」。
【大阪市職員と市長方針の関係で思いついた洒落】
国民みんなの力で… [ちょこっと気になったこと、もの、人]
“オウム事件”での特別手配犯だか何だかの
高橋克也とかいう人を追いかけて連日報道が繰り返され、
ついに「逮捕」されると
「国民みんなの力で逮捕することができた。やったね!!」
みたいなところで話が収まった。
なんか司法当局と国民一人一人が一体になる図式って怖いなと思う。
オウム云々、高橋云々は別にして。
この手の勧善懲悪的ストーリーを流すマスコミはさぞかし楽だ仕事だっただろうなぁ。
高橋克也とかいう人を追いかけて連日報道が繰り返され、
ついに「逮捕」されると
「国民みんなの力で逮捕することができた。やったね!!」
みたいなところで話が収まった。
なんか司法当局と国民一人一人が一体になる図式って怖いなと思う。
オウム云々、高橋云々は別にして。
この手の勧善懲悪的ストーリーを流すマスコミはさぞかし楽だ仕事だっただろうなぁ。
生活の詩 [follow me(フォロー&ついてきて!)]
「自分の足で歩けるって素晴らしい、
お金があるって素晴らしい、
目が見えるって素晴らしい」。
6月15日に考えたエントリーになります。
1行め:そう自己暗示の言葉をつぶやきながらトイレまで頑張って歩いてみた。
2行め:家の唯一の収入源「(両親、ぼくの)年金」が2ヶ月に1度降りる日で、
(兄は今の所経済活動はしていないようなので)そんな日の両親の様子を聞きながら何となくそう感じた。
3行め:ノートpcの出荷時からの初期設定をいつものヘルパーさんに頼んだところ
(当たり前だけど)難なく設定を終えてくれたので音声が鳴らないと何ともpcの操作がままならない
身としては少し感動的な感じがした。
お金があるって素晴らしい、
目が見えるって素晴らしい」。
6月15日に考えたエントリーになります。
1行め:そう自己暗示の言葉をつぶやきながらトイレまで頑張って歩いてみた。
2行め:家の唯一の収入源「(両親、ぼくの)年金」が2ヶ月に1度降りる日で、
(兄は今の所経済活動はしていないようなので)そんな日の両親の様子を聞きながら何となくそう感じた。
3行め:ノートpcの出荷時からの初期設定をいつものヘルパーさんに頼んだところ
(当たり前だけど)難なく設定を終えてくれたので音声が鳴らないと何ともpcの操作がままならない
身としては少し感動的な感じがした。
野田、小沢会談来週にも [政治]
なんかヘンなもんだよなぁ「与党内野党」の存在みたいのって。
政党って一応表向きは「一つの主張」をしてみせるものなんじゃないのかなぁってぼく的には思ってしまうけど…。
バラバラな内部事情が透けて見えてしまうようでは
それはもはや「一つの政党」とは呼べないものなんじゃないのか?
自民党一党独裁政権時代にも「派閥政治」とか何とかいわれてたみたいだったし。
日本人ってそういうの好きな国民なのかなぁ?
政党って一応表向きは「一つの主張」をしてみせるものなんじゃないのかなぁってぼく的には思ってしまうけど…。
バラバラな内部事情が透けて見えてしまうようでは
それはもはや「一つの政党」とは呼べないものなんじゃないのか?
自民党一党独裁政権時代にも「派閥政治」とか何とかいわれてたみたいだったし。
日本人ってそういうの好きな国民なのかなぁ?
ちょっと異常じゃないですかね、金環日食騒ぎ [天気・天候]
頭の悪い製作スタッフが頭の悪い内容を頭の悪い国民に向けてお届けし続けているのが日本のマスコミなわけですが、
日食ごときでこんなに話題を引っ張れるものなんですかね。
みんなで新しい流行を追い掛けたり、みんなで同じ行動をとるのが好きだったりする
我が国の国民がこれに呼応するわけなんですが。
皆がふだん感じている人同士のつながりの「バラバラ感」を払拭するために
「皆で一緒になって騒げる何か」を無意識的にこの国の国民は今求めているのだろうか。
独裁政治を狙ってる政治家にとっては「チャーンス」だったりするのだろうか。
日食ごときでこんなに話題を引っ張れるものなんですかね。
みんなで新しい流行を追い掛けたり、みんなで同じ行動をとるのが好きだったりする
我が国の国民がこれに呼応するわけなんですが。
皆がふだん感じている人同士のつながりの「バラバラ感」を払拭するために
「皆で一緒になって騒げる何か」を無意識的にこの国の国民は今求めているのだろうか。
独裁政治を狙ってる政治家にとっては「チャーンス」だったりするのだろうか。
一審無罪判決の小沢一郎氏を控訴 [政治]
小沢一郎氏の件、
「司法による政治家の政治活動妨害」という印象を持ってしまうのだけど、
どうなんだろうか!?
こりゃぁ制度をいじらないとこんなことが続いては
政治が停滞してばかりになりゃぁせんかいなぁ?
「司法による政治家の政治活動妨害」という印象を持ってしまうのだけど、
どうなんだろうか!?
こりゃぁ制度をいじらないとこんなことが続いては
政治が停滞してばかりになりゃぁせんかいなぁ?
月が大きく見える夜 [天気・天候]
2012年5月5日から7日の夜あたりには
月がいつもより大きく見えてるらしい。
“スーパームーン”と呼ばれているらしい。
地球と月との距離は最大で40万キロで
今回大きく見えている距離は35万キロくらいの近さだとかいう話だ。
「月」を詠んだ俳句は多いと思うのですが
“スーパームーン”の月を詠んだ句ってあるんでしょうかね。
月がいつもより大きく見えてるらしい。
“スーパームーン”と呼ばれているらしい。
地球と月との距離は最大で40万キロで
今回大きく見えている距離は35万キロくらいの近さだとかいう話だ。
「月」を詠んだ俳句は多いと思うのですが
“スーパームーン”の月を詠んだ句ってあるんでしょうかね。
文字入れ替え [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
「ももいろクローバー」に似た言葉で、
「クロいろももーバー」。
「クロいろももーバー」。
こういう場合は「法律」という物差しで計るとどういうことになるんだろう? [お暇なら読んで]
ウェブなどで「殺すぞ」と書くと捕まる、という話を聞いたことがあるのだが、
「殺すぞ」ではなくたとえば「死ねばいいのに」や「しんじゃえ」と書いた場合って、
やはり捕まるものなのだろうか?
どちらの場合も相手を脅してると取れるから両者ともに捕まると考えればいいのだろうか。
「殺すぞ」の場合はそう言っている本人に行為の主体があるのに対して、
「死ねば…」のほうは行為の主体がはっきりしていないばかりか
その含意は「事故死」や「自然死」をも含んでいるので
必ずしも「脅迫」には当たらないのじゃないかとも思えるのだが
どうだろうか?
以上、素朴な疑問でした。
「殺すぞ」ではなくたとえば「死ねばいいのに」や「しんじゃえ」と書いた場合って、
やはり捕まるものなのだろうか?
どちらの場合も相手を脅してると取れるから両者ともに捕まると考えればいいのだろうか。
「殺すぞ」の場合はそう言っている本人に行為の主体があるのに対して、
「死ねば…」のほうは行為の主体がはっきりしていないばかりか
その含意は「事故死」や「自然死」をも含んでいるので
必ずしも「脅迫」には当たらないのじゃないかとも思えるのだが
どうだろうか?
以上、素朴な疑問でした。
小沢一郎さん無罪判決に [政治]
小沢一郎さん無罪判決で良かったですね、
日本の裁判所が法の精神を逸脱しなかったという意味において。
この問題、判決が出るまで長く感じてて
判決が出たらば一段落つくのかと思ったら
まだまだ永田町、マスコミの皆さんはこのテーマで引っ張って行くみたいですね。
くだらなくないですかねぇ、
必死に取り組まないといけないようなもっと大きな問題がいくつも山積してるように思うのですが…。
日本の裁判所が法の精神を逸脱しなかったという意味において。
この問題、判決が出るまで長く感じてて
判決が出たらば一段落つくのかと思ったら
まだまだ永田町、マスコミの皆さんはこのテーマで引っ張って行くみたいですね。
くだらなくないですかねぇ、
必死に取り組まないといけないようなもっと大きな問題がいくつも山積してるように思うのですが…。
思いつき語呂合わせ (4) [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
「後ろ向きの酒浸りの日々にさよならして
酒を楽しみながら前向きに生きて行くことを選んだ方々にこの曲を贈ります。
『上を向いて歩こう』(坂本九)ならぬ
『上を向いてアルコール』」。
酒を楽しみながら前向きに生きて行くことを選んだ方々にこの曲を贈ります。
『上を向いて歩こう』(坂本九)ならぬ
『上を向いてアルコール』」。
長寿日本一 [ちょこっと気になったこと、もの、人]
〈長寿日本一の木村次郎右衛門さんが4月19日に115歳を迎えた。
木村さんは38年郵便局を勤め上げ、子供7人、孫14人にめぐまれた。〉
という話題をvtrでの紹介で少しやっていた
一昨昨日の『情報7days ニュースキャスター』を聞いて、
「世の中には幸せな人生を送れた人もいるんだなぁ」
と何となく思えたのだった。
木村さんは38年郵便局を勤め上げ、子供7人、孫14人にめぐまれた。〉
という話題をvtrでの紹介で少しやっていた
一昨昨日の『情報7days ニュースキャスター』を聞いて、
「世の中には幸せな人生を送れた人もいるんだなぁ」
と何となく思えたのだった。
思いつき語呂合わせ (3) [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
『妖怪人間ベム』に似た言葉で
『業界人間ad』
「闇に隠れて生きる 俺たちゃ業界人間なのさ♪
…早く人間になりたぁい!!」。
『業界人間ad』
「闇に隠れて生きる 俺たちゃ業界人間なのさ♪
…早く人間になりたぁい!!」。
政局絡みで無駄に時間をかけるのはやめてよねー [政治]
野田総理も自民党とかの野党に向かってはっきり言ってやればいいのにね、
「閣僚の誰が問責が可決されたからって交代はしないよ。
だって実際に政治の実験を握っているのは官僚なんだからさ、
誰が閣僚やったって同じじゃないの!?」。
「閣僚の誰が問責が可決されたからって交代はしないよ。
だって実際に政治の実験を握っているのは官僚なんだからさ、
誰が閣僚やったって同じじゃないの!?」。
思いつき語呂合わせ (2) [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
『演歌チャンチャカチャン』(平野雅昭)に似た言葉で、
『怨嗟チャンチャカチャン』。
----------
『エンタの神様』(tv番組)に似た言葉で、
『怨嗟の神様』。
----------
「えーっさ えーっさ えっさほいさっさ お猿のかごやだ ほいさっさ♪」に似た言葉で、
「怨嗟怨嗟怨嗟ほいさっさ…♪」。
『怨嗟チャンチャカチャン』。
----------
『エンタの神様』(tv番組)に似た言葉で、
『怨嗟の神様』。
----------
「えーっさ えーっさ えっさほいさっさ お猿のかごやだ ほいさっさ♪」に似た言葉で、
「怨嗟怨嗟怨嗟ほいさっさ…♪」。
思いつき語呂合わせ (1) [ギャグ、ユーモア、ジョーク、洒落]
「いいえ わったっしはー モナ・リザの女ー♪」
----------
「ゴールまで後数歩の『スーホの白い馬』」
----------
「ゴールまで後数歩の『スーホの白い馬』」
太陽 [雑記]
最近は気温が22、3度くらいで安定してすごしやすい気候となっている。
1年中このくらいの気温ですごせたならどんなに快適だろうと思う。
ところで今はまだまだ陽射しがポカポカとしていてありがたく感じられるのだが
これが長い真夏の日中に外を歩かなければならなかったりする頃には
ジリジリと照りつけられて腹立たしくも感じるようになるのだから
人間とは勝手なものであるなぁと思ったり。
1年中このくらいの気温ですごせたならどんなに快適だろうと思う。
ところで今はまだまだ陽射しがポカポカとしていてありがたく感じられるのだが
これが長い真夏の日中に外を歩かなければならなかったりする頃には
ジリジリと照りつけられて腹立たしくも感じるようになるのだから
人間とは勝手なものであるなぁと思ったり。
「一言的ブログ」にしてみようかなぁ? [パソコン、インターネット、その他テクノロジー]
前に
http://immortality.blog.so-net.ne.jp/2011-01-14
に書いたようにここのペーじがフレームページがたくさん開くような形のものになってしまい
使いづらくなったのでほかのブログサイトに引越ししたのですが、
その後twitterやfacebookへのボタンを付けない設定ができるようになったみたいなので
フレームページがそんなに開かないような形に戻せるようになったので
またここのページを使ってみようかと思いまして。
http://immortality.blog.so-net.ne.jp/2011-01-14
に書いたようにここのペーじがフレームページがたくさん開くような形のものになってしまい
使いづらくなったのでほかのブログサイトに引越ししたのですが、
その後twitterやfacebookへのボタンを付けない設定ができるようになったみたいなので
フレームページがそんなに開かないような形に戻せるようになったので
またここのページを使ってみようかと思いまして。
発したいメッセージ [思い]
〈“自殺”というのは周りの人達に「死なないために自分に何かができたのではないか?」という悔いを残させるものだ〉ということを聞いたことがあるが、最近も芸能界から2件ほど“自殺”の訃報が聞こえてきた。そういうのは“思いがけない人が思いがけなく”といった感じが強くて少なからず驚かされる。
「人間いろいろあるけど、何も(自殺までして)死ぬこたぁねぇんじゃないの」というメッセージを自分のブログやらツイッターやらの全体から何となく感じとってもらえるようなものにしたいなぁ、とか、ぼくなどは思っていたりするのだけど。
主に肉体的条件やらサポーターに恵まれなかったことにより、自分が「こうありたいなぁ」とか「これがやりたいなぁ」というものとは違う“与えられた条件の中でやれることを何とかやり続けること”で時間を費やしているぼくとしては、自分の人生は全く不本意、不完全燃焼、不満足なもの(それでも「常に新しいものに興味を持ち続け、たとえ1ミリずつでも自分の外側へと広がって行きたいという“冒険心”は抱き続けてきたつもりではいるが)であり、日々の生活は“嫌なことはたくさんあるけどいいことは特にあまりない”感じなんだけども、そして“人生を生きる積極性”にも欠けるところがあるのだけれど、それでも、〈誰かが自殺した〉というニュースを耳にすると“脱力感”を感じたりするもので、「まぁ、こんなぼくでもとりあえずは生きているわけだしさぁ」と励ましともつかないような言葉をかけてあげたいような思いに駆られたりするわけなのでありますね。
「人間いろいろあるけど、何も(自殺までして)死ぬこたぁねぇんじゃないの」というメッセージを自分のブログやらツイッターやらの全体から何となく感じとってもらえるようなものにしたいなぁ、とか、ぼくなどは思っていたりするのだけど。
主に肉体的条件やらサポーターに恵まれなかったことにより、自分が「こうありたいなぁ」とか「これがやりたいなぁ」というものとは違う“与えられた条件の中でやれることを何とかやり続けること”で時間を費やしているぼくとしては、自分の人生は全く不本意、不完全燃焼、不満足なもの(それでも「常に新しいものに興味を持ち続け、たとえ1ミリずつでも自分の外側へと広がって行きたいという“冒険心”は抱き続けてきたつもりではいるが)であり、日々の生活は“嫌なことはたくさんあるけどいいことは特にあまりない”感じなんだけども、そして“人生を生きる積極性”にも欠けるところがあるのだけれど、それでも、〈誰かが自殺した〉というニュースを耳にすると“脱力感”を感じたりするもので、「まぁ、こんなぼくでもとりあえずは生きているわけだしさぁ」と励ましともつかないような言葉をかけてあげたいような思いに駆られたりするわけなのでありますね。
ブログの引越し [follow me(フォロー&ついてきて!)]
なんか、ここのページが
フレームページが矢鱈開くような形になっちゃったみたいなので
使いづらくて
http://blog.goo.ne.jp/fkmk
にとりあえず引っ越してみることにしてみました。
よろしくです。
フレームページが矢鱈開くような形になっちゃったみたいなので
使いづらくて
http://blog.goo.ne.jp/fkmk
にとりあえず引っ越してみることにしてみました。
よろしくです。
本当に可笑しい話ってさ… [思い]
本当に可笑しい、笑える話、会話とかって
笑わせよう、笑わせようと半ば無理やり的に捻り出される話、会話よりも
真面目に話していることの中にあったりするようなことがあるように思う。
本人達はいたって普通に真面目に話しているのに
その話の結論が落とし噺的であったり
本人が真面目に考えていることの延長線上がギャグになっていたりなど
“本当におもしろい人”というのはその“普通さ”“真面目さ”が自然にギャグにつながっているひとなんじゃないかと思ったりするのである。
笑わせよう、笑わせようと半ば無理やり的に捻り出される話、会話よりも
真面目に話していることの中にあったりするようなことがあるように思う。
本人達はいたって普通に真面目に話しているのに
その話の結論が落とし噺的であったり
本人が真面目に考えていることの延長線上がギャグになっていたりなど
“本当におもしろい人”というのはその“普通さ”“真面目さ”が自然にギャグにつながっているひとなんじゃないかと思ったりするのである。
日本人に足りないものって [考えていること]
今日本人に足りないものってもしかしたら“アグレッシブさ”とかなんじゃないだろうか?
“アグレッシブさ”とは「意欲的な、積極的な、行動的な、活動的な、精力的な、挑戦的な、攻撃的な、強烈な成功志向、功名心旺盛な、前向きの、上昇志向の、やり手の、野心的、エネルギッシュに、猛然と」みたいな感じ。
今の日本人には「競争から降りたい、競争には参加したくない、ナンバーワンよりはオンリーワン」「なるべく温和に暮らしたい」と望んでいる人が多いのではないかと、何となくそんな気がする。
でも、日本という国が世界の中で生き残って行くためには人々に“アグレッシブさ”“積極的に競争に参加して行こうとする精神”というのが必要なんじゃないかと何となくそんな気もする。
それが世界の人のスタンダードでもあるように思えるから。
“温和な共生社会”を望むのはもうちょっと未来にとっておいて、今はまだ“競争精神”というのも忘れちゃいけない時代なんじゃないだろうか?
“アグレッシブさ”とは「意欲的な、積極的な、行動的な、活動的な、精力的な、挑戦的な、攻撃的な、強烈な成功志向、功名心旺盛な、前向きの、上昇志向の、やり手の、野心的、エネルギッシュに、猛然と」みたいな感じ。
今の日本人には「競争から降りたい、競争には参加したくない、ナンバーワンよりはオンリーワン」「なるべく温和に暮らしたい」と望んでいる人が多いのではないかと、何となくそんな気がする。
でも、日本という国が世界の中で生き残って行くためには人々に“アグレッシブさ”“積極的に競争に参加して行こうとする精神”というのが必要なんじゃないかと何となくそんな気もする。
それが世界の人のスタンダードでもあるように思えるから。
“温和な共生社会”を望むのはもうちょっと未来にとっておいて、今はまだ“競争精神”というのも忘れちゃいけない時代なんじゃないだろうか?
「他人に迷惑をかけないように」という教えって… [考えていること]
日本人は伝統的に「他人に迷惑をかけないようにしなさい」とか「他人に迷惑をかけないようにしたい」とかいう考えが好きみたいですね。
ぼくにはこの感覚って何だかちょっとぴんとこないなぁというのがあります。
ぼく自身は、遠慮深い性格とか、人とあまりベタベタした人間関係を持つのが好きではないということがあって、日頃から沢山沢山人と関わりを持ちながら暮らして行きたいとは思わないのですけどね。
それでも「他人に迷惑をかけないように」という感覚って分からないところあるなぁって思うんですよね。
だって、人っていうのは互いに「迷惑をかけたり、かけられたり」「世話をしたり、世話になったり」しながら生きて行くものだと思うから。
そういう風にしながら人の“絆”って築きあげられて行くもののように思うんですよね。
もともとは“他人”という言葉が指していたのはもしかしたら、“身内”に対する“他人”であったのかもしれませんね。
「身内にはいくらでも迷惑をかけてもいいけれど、身内意外の他人様には迷惑をかけちゃいけないよ」という教えだったのかもしれません。
でも、今日では“他人”という言葉が指すものって“他者”=“自分以外の人”ということになってしまっているように感じるんですね。
“無縁社会”という言葉に象徴される「孤独な人々」「バラバラな個人」を助長する言葉のようになってしまっていると。
「他人に迷惑をかけない」ようにする一番手っ取り早い方法って「他人との関わりを持たない」ようにすることだと思うんですね。
そういう手っ取り早い方法を皆がとった場合、人々はバラバラになって行かざるをえない。
極端な話、「生き続けるために他人に大きな迷惑をかけるよりかは、少しの迷惑で済むような感じがする自殺で事を解決してしまおうか」という結論を導き出しかねないところがあるように思えるんですがね。
昔は、いやが応でも人同士が協力して生活上の役割を分担して行かないと生活そのものを営んで行くことができない生活状況というものがあったので、「他人に迷惑をかけないように」というのが最低限の生活のエチケットとして成り立ったのかもしれませんが、金さえ出せば生活に必要な様々なサービスを手に入れることのできる環境が整った現代日本のような社会にあっては、本当に「他人に迷惑をかけないように」して、自分一人だけでも生活して行けるようになってしまっています。
そんな時代状況にあってさえ、「他人に迷惑をかけないように」という日本人の好きな教えって、やっぱり大事にされなければならないものなんでしょうか?
ぼくにはこの感覚って何だかちょっとぴんとこないなぁというのがあります。
ぼく自身は、遠慮深い性格とか、人とあまりベタベタした人間関係を持つのが好きではないということがあって、日頃から沢山沢山人と関わりを持ちながら暮らして行きたいとは思わないのですけどね。
それでも「他人に迷惑をかけないように」という感覚って分からないところあるなぁって思うんですよね。
だって、人っていうのは互いに「迷惑をかけたり、かけられたり」「世話をしたり、世話になったり」しながら生きて行くものだと思うから。
そういう風にしながら人の“絆”って築きあげられて行くもののように思うんですよね。
もともとは“他人”という言葉が指していたのはもしかしたら、“身内”に対する“他人”であったのかもしれませんね。
「身内にはいくらでも迷惑をかけてもいいけれど、身内意外の他人様には迷惑をかけちゃいけないよ」という教えだったのかもしれません。
でも、今日では“他人”という言葉が指すものって“他者”=“自分以外の人”ということになってしまっているように感じるんですね。
“無縁社会”という言葉に象徴される「孤独な人々」「バラバラな個人」を助長する言葉のようになってしまっていると。
「他人に迷惑をかけない」ようにする一番手っ取り早い方法って「他人との関わりを持たない」ようにすることだと思うんですね。
そういう手っ取り早い方法を皆がとった場合、人々はバラバラになって行かざるをえない。
極端な話、「生き続けるために他人に大きな迷惑をかけるよりかは、少しの迷惑で済むような感じがする自殺で事を解決してしまおうか」という結論を導き出しかねないところがあるように思えるんですがね。
昔は、いやが応でも人同士が協力して生活上の役割を分担して行かないと生活そのものを営んで行くことができない生活状況というものがあったので、「他人に迷惑をかけないように」というのが最低限の生活のエチケットとして成り立ったのかもしれませんが、金さえ出せば生活に必要な様々なサービスを手に入れることのできる環境が整った現代日本のような社会にあっては、本当に「他人に迷惑をかけないように」して、自分一人だけでも生活して行けるようになってしまっています。
そんな時代状況にあってさえ、「他人に迷惑をかけないように」という日本人の好きな教えって、やっぱり大事にされなければならないものなんでしょうか?
タイプ別コミュニケーションの形 [考えていること]
「コミュニケーションの形」についてぼくの頭の中にある一つのイメージを述べてみる。
それは“野球のポジション”に準えたもので、“ピッチャータイプ”“キャッチャータイプ”“内野手タイプ”“外野手タイプ”の四つに分けてみたものである。(あくまでも「ぼくの頭の中のイメージ」にすぎない分類なので、実際の野球のポジションとは違っていてもかまわないでね)
まずは“ピッチャータイプ”。
集団の中心になる人で、集団の“エンジン”ともいえるような、物事の中心になって集団を引っ張って行くようなタイプ。
何か物事の目標を立ててそれを実現させて行くためにはこういう人が必ず一人必要、という感じ。
次に“キャッチャータイプ”。
全体を見渡して、適材適所に人員を配置したり、戦略を立てたりといった役割が得意な“参謀タイプ”。
3番目は“内野手タイプ”。
いつも人と一緒にいるのが好きで、“仲間で攣るんで行動するのが好き”というたいぷ。
いつも仲間同士でボールを回しあっているような感じ。
最後は“外野手タイプ”。
どちらかというと“一人でいることがあまり苦にならない(好きだったりする)”タイプ。
マイペースで自分を鍛え、少しずつでも自分の守備範囲を広げたり、捕球や送球が上手くなれるようにして行く感じ。
ぼくはといえば、“外野手タイプ”なんじゃないかなぁ。
いつも集団の端っこのほうにいて、いつでも他集団に移るチャンスを窺っていたりもする、みたいな。
もともとはピッチャーかキャッチャーをやりたかったんじゃないかと思う。
肉体的ハンディキャップがあるのと内気な性格から、「誰かとバッテリーを組んで生きて行きたいなぁ」という望みがあったのだけれど、結局大人になるまでの間にそういう人とのめぐり合わせがなかったため、「一人で外野手でもやるかぁ」という具合になって行ったと思うのである。(バッテリーを組むに当たっては自分はピッチャー役でもよかったしキャッチャー役でもよかった)
今、世の中でいわれる「若い人はコミニュケーション能力不足」というときの“コミュニケーションの形”というのって、“内野手タイプ”のような人間関係のことを指しているように思えるんだけど、どうだろうか。
人それぞれに“性格”ってものがあるのだから、必ずしも皆が“内野手タイプ”である必要って、特にないような気がする。
重要なのは、ピッチャーとしてでも、外野手としてでも、自分がどこかの集団に属していて、自分はそのチームの中の一員であるという意識を持つ(持たせる)ことができるかどうか、ってことなんじゃないだろうか。
それは“野球のポジション”に準えたもので、“ピッチャータイプ”“キャッチャータイプ”“内野手タイプ”“外野手タイプ”の四つに分けてみたものである。(あくまでも「ぼくの頭の中のイメージ」にすぎない分類なので、実際の野球のポジションとは違っていてもかまわないでね)
まずは“ピッチャータイプ”。
集団の中心になる人で、集団の“エンジン”ともいえるような、物事の中心になって集団を引っ張って行くようなタイプ。
何か物事の目標を立ててそれを実現させて行くためにはこういう人が必ず一人必要、という感じ。
次に“キャッチャータイプ”。
全体を見渡して、適材適所に人員を配置したり、戦略を立てたりといった役割が得意な“参謀タイプ”。
3番目は“内野手タイプ”。
いつも人と一緒にいるのが好きで、“仲間で攣るんで行動するのが好き”というたいぷ。
いつも仲間同士でボールを回しあっているような感じ。
最後は“外野手タイプ”。
どちらかというと“一人でいることがあまり苦にならない(好きだったりする)”タイプ。
マイペースで自分を鍛え、少しずつでも自分の守備範囲を広げたり、捕球や送球が上手くなれるようにして行く感じ。
ぼくはといえば、“外野手タイプ”なんじゃないかなぁ。
いつも集団の端っこのほうにいて、いつでも他集団に移るチャンスを窺っていたりもする、みたいな。
もともとはピッチャーかキャッチャーをやりたかったんじゃないかと思う。
肉体的ハンディキャップがあるのと内気な性格から、「誰かとバッテリーを組んで生きて行きたいなぁ」という望みがあったのだけれど、結局大人になるまでの間にそういう人とのめぐり合わせがなかったため、「一人で外野手でもやるかぁ」という具合になって行ったと思うのである。(バッテリーを組むに当たっては自分はピッチャー役でもよかったしキャッチャー役でもよかった)
今、世の中でいわれる「若い人はコミニュケーション能力不足」というときの“コミュニケーションの形”というのって、“内野手タイプ”のような人間関係のことを指しているように思えるんだけど、どうだろうか。
人それぞれに“性格”ってものがあるのだから、必ずしも皆が“内野手タイプ”である必要って、特にないような気がする。
重要なのは、ピッチャーとしてでも、外野手としてでも、自分がどこかの集団に属していて、自分はそのチームの中の一員であるという意識を持つ(持たせる)ことができるかどうか、ってことなんじゃないだろうか。
“プロ魂”を大切に [考えていること]
「本当のこと」「本質的な話」ってのはですね、もともと“メジャー”にはなりにくい性質をもっているんじゃないかなぁと思ったりするんですよねぇ。
「本当のこと」「本質的な話」といった核心を突くようなことはあまり大っぴらにできないというか、“こっそり語られるべきこと”に分けられてしまうというかですね。
だから、「地上波テレビや大新聞社などの大手メディア、大衆メディアは問題の本質を突いていない。様々な利権や既得権益絡みでわざと問題の本質を避けて報道している」という批判がインターネットを中心とした場所で賑やかに語られても、「でも、そういうのってある種致し方ないことなんじゃないかなぁ」とか最近ちょこっと思うのですよ。
“だいたいの人”というのは“ゆるく”生きてるわけで、マスコミに身を置いているからといって、「問題意識をしっかり持っている」「事の本質を分かっている」「“ジャーナリスト魂”といったプロ意識を持って常に仕事をしている」というような好ましい人材がどれだけいるんだろう?、と思うわけです。
また、大衆のほうも“鋭い頭”を持った人というのはそんなに多くなくて、やっぱりこちらのほうも“ゆるい人”というのがだいたいなわけだから、着眼点もゆるいし口の端に上る話題というのもゆるいわけですよねぇ。
そういうのが生み出すものが“メジャーなもの”ということなんじゃないでしょうか。
でも、事の本質を見誤った状態のまま時間とともに社会が進んで行ってしまうと、その社会がクラッシュを起こす(戦争を引き起こすとか、多くの人の生活が貧しくなるとか)ことにもつながるので、そのへんのところをどうしていったらいいんだろうか、という問題が残りますよねぇ。
「本当のこと」「本質的な話」といった核心を突くようなことはあまり大っぴらにできないというか、“こっそり語られるべきこと”に分けられてしまうというかですね。
だから、「地上波テレビや大新聞社などの大手メディア、大衆メディアは問題の本質を突いていない。様々な利権や既得権益絡みでわざと問題の本質を避けて報道している」という批判がインターネットを中心とした場所で賑やかに語られても、「でも、そういうのってある種致し方ないことなんじゃないかなぁ」とか最近ちょこっと思うのですよ。
“だいたいの人”というのは“ゆるく”生きてるわけで、マスコミに身を置いているからといって、「問題意識をしっかり持っている」「事の本質を分かっている」「“ジャーナリスト魂”といったプロ意識を持って常に仕事をしている」というような好ましい人材がどれだけいるんだろう?、と思うわけです。
また、大衆のほうも“鋭い頭”を持った人というのはそんなに多くなくて、やっぱりこちらのほうも“ゆるい人”というのがだいたいなわけだから、着眼点もゆるいし口の端に上る話題というのもゆるいわけですよねぇ。
そういうのが生み出すものが“メジャーなもの”ということなんじゃないでしょうか。
でも、事の本質を見誤った状態のまま時間とともに社会が進んで行ってしまうと、その社会がクラッシュを起こす(戦争を引き起こすとか、多くの人の生活が貧しくなるとか)ことにもつながるので、そのへんのところをどうしていったらいいんだろうか、という問題が残りますよねぇ。
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