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“プロ魂”を大切に [考えていること]

「本当のこと」「本質的な話」ってのはですね、もともと“メジャー”にはなりにくい性質をもっているんじゃないかなぁと思ったりするんですよねぇ。

「本当のこと」「本質的な話」といった核心を突くようなことはあまり大っぴらにできないというか、“こっそり語られるべきこと”に分けられてしまうというかですね。

だから、「地上波テレビや大新聞社などの大手メディア、大衆メディアは問題の本質を突いていない。様々な利権や既得権益絡みでわざと問題の本質を避けて報道している」という批判がインターネットを中心とした場所で賑やかに語られても、「でも、そういうのってある種致し方ないことなんじゃないかなぁ」とか最近ちょこっと思うのですよ。

“だいたいの人”というのは“ゆるく”生きてるわけで、マスコミに身を置いているからといって、「問題意識をしっかり持っている」「事の本質を分かっている」「“ジャーナリスト魂”といったプロ意識を持って常に仕事をしている」というような好ましい人材がどれだけいるんだろう?、と思うわけです。

また、大衆のほうも“鋭い頭”を持った人というのはそんなに多くなくて、やっぱりこちらのほうも“ゆるい人”というのがだいたいなわけだから、着眼点もゆるいし口の端に上る話題というのもゆるいわけですよねぇ。

そういうのが生み出すものが“メジャーなもの”ということなんじゃないでしょうか。

でも、事の本質を見誤った状態のまま時間とともに社会が進んで行ってしまうと、その社会がクラッシュを起こす(戦争を引き起こすとか、多くの人の生活が貧しくなるとか)ことにもつながるので、そのへんのところをどうしていったらいいんだろうか、という問題が残りますよねぇ。










そういうことを打開する考え方の一つになるか、ならないか分かりませんけど、社会を構成する成員みんながもっと「“プロ”に“リスペクト精神”を持つ」ことも大事なことなんじゃないかなぁとか、思ったりするわけなんです。

“プロフェッショナル”というのを“職人”といってもいいのかもしれませんね。

今は中途半端に情報が大衆に行き渡っているためか、素人がプロの仕事に口を出しすぎるというか、プロの仕事を甘く見てしまう傾向があるんじゃないですかね。

「見るとやるとは大違い」という言葉もあるように、実際にその事柄に向き合って日々仕事をしている人と、傍目からそれを見ているだけの人の感覚とは自ずと違いがありますよねぇ。

素人にはプロが感じる当事者の抱えている困難さといった点は見えてこない。

素人がプロの仕事を甘く見出したというのには“日本のテレビ”の影響とかもあるのかなぁ、と思ったりするんですよね。

日本のテレビって“プロの仕事を見せる”というよりは“親しみやすさ(素人っぽさ)を優先”させてきたところがあるんじゃないかって。

一時期は本物の素人を出演させてエンターテイメントな番組づくりをしていたこともありますし。(でも今は製作者側の使いやすさからか、本当の一般市民を使うより、プロの芸能人に親しみやすい、素人っぽい芸当をやらせる傾向になってるみたい)

日本のテレビのフレームの中に入ってしまうと物事は「あれなら俺だってできそうじゃない」「あれなら俺だって明日から有名人になれるよ」というある種の勘違いを誘発させてしまうところがありそう。

そんな風にして、時事ネタ流行りの今日にあっては、政治や行政の仕事であっても、「一般市民の自分のほうがあんなへまな人たちよりはよっぽど増しじゃない」という思いを誘発させているようにも思えるのですね。

確かに、日本の政治家さんたちのレベルって海外のそれに比べて低いような気はしますし、官僚さんたちの自分たちの権益確保のためのエゴイスティックさみたいな動きはあるような気はしますけどね。

それにしたって高度にプロフェッショナルな仕事をしている人たちに対するリスペクト精神というのは忘れてはならないように思うのです。

それ以外にも、日本て第一線で活躍している人を上のほうに抜擢しない伝統があるのかなぁ、という感じもあります。

第一線で鍛えて体得した感覚というのは大事なものがあると思うのですが、「下は下、上は上」みたいに見えない身分制というのがあって、現場を知らない人たちが物事の方向性を本質を外したままに決定して行ってしまう構造があるのかなぁ、とか。

日本の官僚批判の一つにそういうことも挙げられるのかもしれませんね。

エリートには“エリートのプロフェッショナル魂”というのもあるべきでしょうから、正しい倫理観や確かな技術を持って仕事をするべきなんでしょうが。

そんな風にして、「プロにはプロの仕事」をしてもらい、「成員はリスペクト精神を持つ」ということがなければ社会は回って行かないんじゃないかなって、思ったりするわけです。

「船頭多くして船山に上る」でもダメだしまた「船頭不在」でも困るしというのが、日本丸の行方なんじゃないですかねぇ。

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不滅野

“裁判員制度”というのもそういうことの一つの現れなんじゃないかなぁ。
本来、法律家のプロ魂によって運用されるべき刑事裁判手続きが、近年高まってきた一般市民の重罰化を望む応報感情に棹さす形でそれが決められてしまったような気がするんだけど。
「一般市民も共犯関係にしてしまえば、判決に文句を言う人も減るでしょう」ってな具合に。
でも、量刑まで決めさせるのは酷なんじゃないかとかも言われてたりしますよね。
今のような裁判への関わり方というのは、日本国民自らが主体的に望んで選んだことなんでしょうかね?

by 不滅野 (2010-12-06 12:26) 

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