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日本人に足りないものって [考えていること]

今日本人に足りないものってもしかしたら“アグレッシブさ”とかなんじゃないだろうか?

“アグレッシブさ”とは「意欲的な、積極的な、行動的な、活動的な、精力的な、挑戦的な、攻撃的な、強烈な成功志向、功名心旺盛な、前向きの、上昇志向の、やり手の、野心的、エネルギッシュに、猛然と」みたいな感じ。

今の日本人には「競争から降りたい、競争には参加したくない、ナンバーワンよりはオンリーワン」「なるべく温和に暮らしたい」と望んでいる人が多いのではないかと、何となくそんな気がする。

でも、日本という国が世界の中で生き残って行くためには人々に“アグレッシブさ”“積極的に競争に参加して行こうとする精神”というのが必要なんじゃないかと何となくそんな気もする。

それが世界の人のスタンダードでもあるように思えるから。

“温和な共生社会”を望むのはもうちょっと未来にとっておいて、今はまだ“競争精神”というのも忘れちゃいけない時代なんじゃないだろうか?

「他人に迷惑をかけないように」という教えって… [考えていること]

日本人は伝統的に「他人に迷惑をかけないようにしなさい」とか「他人に迷惑をかけないようにしたい」とかいう考えが好きみたいですね。

ぼくにはこの感覚って何だかちょっとぴんとこないなぁというのがあります。

ぼく自身は、遠慮深い性格とか、人とあまりベタベタした人間関係を持つのが好きではないということがあって、日頃から沢山沢山人と関わりを持ちながら暮らして行きたいとは思わないのですけどね。

それでも「他人に迷惑をかけないように」という感覚って分からないところあるなぁって思うんですよね。

だって、人っていうのは互いに「迷惑をかけたり、かけられたり」「世話をしたり、世話になったり」しながら生きて行くものだと思うから。

そういう風にしながら人の“絆”って築きあげられて行くもののように思うんですよね。

もともとは“他人”という言葉が指していたのはもしかしたら、“身内”に対する“他人”であったのかもしれませんね。

「身内にはいくらでも迷惑をかけてもいいけれど、身内意外の他人様には迷惑をかけちゃいけないよ」という教えだったのかもしれません。

でも、今日では“他人”という言葉が指すものって“他者”=“自分以外の人”ということになってしまっているように感じるんですね。

“無縁社会”という言葉に象徴される「孤独な人々」「バラバラな個人」を助長する言葉のようになってしまっていると。

「他人に迷惑をかけない」ようにする一番手っ取り早い方法って「他人との関わりを持たない」ようにすることだと思うんですね。

そういう手っ取り早い方法を皆がとった場合、人々はバラバラになって行かざるをえない。

極端な話、「生き続けるために他人に大きな迷惑をかけるよりかは、少しの迷惑で済むような感じがする自殺で事を解決してしまおうか」という結論を導き出しかねないところがあるように思えるんですがね。

昔は、いやが応でも人同士が協力して生活上の役割を分担して行かないと生活そのものを営んで行くことができない生活状況というものがあったので、「他人に迷惑をかけないように」というのが最低限の生活のエチケットとして成り立ったのかもしれませんが、金さえ出せば生活に必要な様々なサービスを手に入れることのできる環境が整った現代日本のような社会にあっては、本当に「他人に迷惑をかけないように」して、自分一人だけでも生活して行けるようになってしまっています。

そんな時代状況にあってさえ、「他人に迷惑をかけないように」という日本人の好きな教えって、やっぱり大事にされなければならないものなんでしょうか?

タイプ別コミュニケーションの形 [考えていること]

「コミュニケーションの形」についてぼくの頭の中にある一つのイメージを述べてみる。

それは“野球のポジション”に準えたもので、“ピッチャータイプ”“キャッチャータイプ”“内野手タイプ”“外野手タイプ”の四つに分けてみたものである。(あくまでも「ぼくの頭の中のイメージ」にすぎない分類なので、実際の野球のポジションとは違っていてもかまわないでね)

まずは“ピッチャータイプ”。

集団の中心になる人で、集団の“エンジン”ともいえるような、物事の中心になって集団を引っ張って行くようなタイプ。

何か物事の目標を立ててそれを実現させて行くためにはこういう人が必ず一人必要、という感じ。

次に“キャッチャータイプ”。

全体を見渡して、適材適所に人員を配置したり、戦略を立てたりといった役割が得意な“参謀タイプ”。

3番目は“内野手タイプ”。

いつも人と一緒にいるのが好きで、“仲間で攣るんで行動するのが好き”というたいぷ。

いつも仲間同士でボールを回しあっているような感じ。

最後は“外野手タイプ”。

どちらかというと“一人でいることがあまり苦にならない(好きだったりする)”タイプ。

マイペースで自分を鍛え、少しずつでも自分の守備範囲を広げたり、捕球や送球が上手くなれるようにして行く感じ。

ぼくはといえば、“外野手タイプ”なんじゃないかなぁ。

いつも集団の端っこのほうにいて、いつでも他集団に移るチャンスを窺っていたりもする、みたいな。

もともとはピッチャーかキャッチャーをやりたかったんじゃないかと思う。

肉体的ハンディキャップがあるのと内気な性格から、「誰かとバッテリーを組んで生きて行きたいなぁ」という望みがあったのだけれど、結局大人になるまでの間にそういう人とのめぐり合わせがなかったため、「一人で外野手でもやるかぁ」という具合になって行ったと思うのである。(バッテリーを組むに当たっては自分はピッチャー役でもよかったしキャッチャー役でもよかった)

今、世の中でいわれる「若い人はコミニュケーション能力不足」というときの“コミュニケーションの形”というのって、“内野手タイプ”のような人間関係のことを指しているように思えるんだけど、どうだろうか。

人それぞれに“性格”ってものがあるのだから、必ずしも皆が“内野手タイプ”である必要って、特にないような気がする。

重要なのは、ピッチャーとしてでも、外野手としてでも、自分がどこかの集団に属していて、自分はそのチームの中の一員であるという意識を持つ(持たせる)ことができるかどうか、ってことなんじゃないだろうか。

“プロ魂”を大切に [考えていること]

「本当のこと」「本質的な話」ってのはですね、もともと“メジャー”にはなりにくい性質をもっているんじゃないかなぁと思ったりするんですよねぇ。

「本当のこと」「本質的な話」といった核心を突くようなことはあまり大っぴらにできないというか、“こっそり語られるべきこと”に分けられてしまうというかですね。

だから、「地上波テレビや大新聞社などの大手メディア、大衆メディアは問題の本質を突いていない。様々な利権や既得権益絡みでわざと問題の本質を避けて報道している」という批判がインターネットを中心とした場所で賑やかに語られても、「でも、そういうのってある種致し方ないことなんじゃないかなぁ」とか最近ちょこっと思うのですよ。

“だいたいの人”というのは“ゆるく”生きてるわけで、マスコミに身を置いているからといって、「問題意識をしっかり持っている」「事の本質を分かっている」「“ジャーナリスト魂”といったプロ意識を持って常に仕事をしている」というような好ましい人材がどれだけいるんだろう?、と思うわけです。

また、大衆のほうも“鋭い頭”を持った人というのはそんなに多くなくて、やっぱりこちらのほうも“ゆるい人”というのがだいたいなわけだから、着眼点もゆるいし口の端に上る話題というのもゆるいわけですよねぇ。

そういうのが生み出すものが“メジャーなもの”ということなんじゃないでしょうか。

でも、事の本質を見誤った状態のまま時間とともに社会が進んで行ってしまうと、その社会がクラッシュを起こす(戦争を引き起こすとか、多くの人の生活が貧しくなるとか)ことにもつながるので、そのへんのところをどうしていったらいいんだろうか、という問題が残りますよねぇ。










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国粋的発言に思うこと [考えていること]

「日本民族は優秀だ」とか「日本人は海外から高く評価されている」とか威張って言う政治家とかがときどきいるけれど、そんなことを言う前に自分が世界的に一目置かれる人物になってみれば?と思ってしまう。“人の褌で相撲取ってる”場合か!とか思う。

“説明責任”という言葉 [考えていること]

「説明責任を果たせ!」だの「説明不測だ!」だのって最近日本人がよく使うようになった言葉なんだけれど、ぼくにはこの言葉が“自分の頭の悪さ”“理解するための努力不足、勉強不測”をとりあえず覆い隠すためのテクニックとして使われるようになっているような気がしてしまうのである。「説明責任を果たせ!」と叫んだり「説明不足なんだよ」と切り捨ててしまえば、例え自分の頭の中身が空っぽでも体裁が取り繕えるのである。

ぼくなんかが思うに、“説明責任”を果たすも果たさないも、情報の発信者側の損得勘定で、自分にとって利があると思えばいくらでも言葉を尽くすんだろうし、利がないと考えれば余分な言葉は慎むものなんじゃないかと。「自分に利がない」と考えている人に向かっていくら「説明責任を果たせ!」と凄んでみせてもせんないことではないだろうか。

また、人というのは“納得”するのが大好きな生き物なので自分の気に入る答えが引き出せるまでは言い掛かりでも何でも食いついてくるので“説明責任を果たす”といってもどこまで言葉を尽くせばいいのかなんてことは誰にも分からないものになってしまうようにも思う。

で、結局ここでの結論としては、いくら流行り言葉だからといって「説明責任を果たせ!」という言葉に寄り掛かり過ぎたり、この言葉を誰彼構わず突き付けたりするのはやめたほうがいいのでは?というあたりでどうかなぁ。

「感動」とか抜きで [考えていること]

「見習いたくなるようなあなたの発言を聞かせてくれ」みたいな方向に会話を進められると何かいやな感じがしてしまうんだよなぁ。そんな風にがっつかれるとね。
「感動」とかを媒介にしないと障害者と付き合えないもんなんだろうかねぇ、と素朴に思ってるところがぼくにはあるんだけど。
あと、「めんどうみてやってる」風(かぜ)吹かされるのもいやだしね。



佐々木俊尚×東浩紀対談から [考えていること]

〈東:よく信頼社会とか安心社会とかいいますが、日本人は信頼してないんですよ、他人を。
 自分の近くの人間だけしか信頼できない。匿名の他者を信頼するっていうことがやっぱりできてないんです。それがネット時代になって弱点としてかなり顕著に現れてきている。〉

〈佐々木:なんでそんなことになるかっていうと、ネット上で偽のアカウントを取られてやられたら大変だ、セキュリティを高めなくてはいけない、100%のセキュリティが必要だって話になってるんですよ。
 でも一方で、実際に窓口に行くとセキュリティはヤワですよ。昔の日本社会ってムラだったでしょう。例えば村役場に行くとみんな顔見知りだから知らない人が住民票を取りに来たらすぐ分かる。そういう前提の上であの適当な仕組みなっている。
 それが崩壊してきたにもかかわらず、相変わらずリアルの対面での窓口がそういう仕組みのまま。でもネットに関してはムラじゃなくて外部なんですよ。外部だからそれを徹底的に守らなくきゃいけない。ムラの外と内という意味では、相変わらずネットはムラの外で、窓口はムラの内という切り分けが延々と続いている。〉

〈佐々木:あの時代(80年代)は、忘れている人も多いんですけど、お店に行っても店員はみんな愛想が悪かった、居丈高で(笑)。でも最近はそこら辺のカフェとか安い喫茶店でも、スタッフはみんなすごく感じいいですよね。人と会ってニコってする人が最近増えている。これってアメリカ的な一般信頼社会じゃないかと思うんです。
 お互いに知らないことがまず前提です。だからお互い「敵じゃないですよ」って取り敢えず目線で交わし合って、そこからやりとりに入る。それはムラの内側外側っていう意識がなくくなっているからこそ出来るわけです。
 今の二十代から三十代くらいの、いわゆるデジタルネイティブ世代の人からは、完全にそっちに行っちゃってるんじゃないかな。〉

〈佐々木:…
 僕は80年代の二十代を送っていて、あの時代って日本のムラ社会、総中流社会の最後の名残り日みたいな時代だった。あの時代からこの20年の変遷を見ていると劇的に日本社会って変わってきている。記号消費がなくなった。ルイヴィトンの鞄を喜んで持っているのは四十代以上だけ。今の二十代、ルイヴィトンなんて誰も持っていない。〉

〈佐々木:…
 今の二十代三十代の生活文化って素晴らしい。さっき言ったような、目線でニコッとするとか、みんな感じのいい人が多いとか、あるいは華美な車買ったり、海外旅行とかじゃなくて、自分の生活を大事にしようという感じです。
 新築高層マンションに住むんじゃなくて、リノベーションで中古に住みたいとか。昔、中野孝次さんが言っていた『清貧の思想』みたいなものが、今の若者の間に文化として成立してきている。これはすごく素晴らしい。
 でも一方で経済的とか産業的に見ると、日本は下り坂を真っ逆様に落ちつつある。今起きている素晴らしい生活文化は徒花に終わる可能性がある。
東:そもそも不況に対する適応として出てきたライフスタイルですからね。
佐々木:その不況がどんどん真っ逆様に進んで行ってしまうと、地味だけど豊かな生活文化さえ維持できなくなってしまって、どんどん貧困になってしまう可能性がある。そうすると一過性で終わっちゃう。
 今の華美じゃない、バブルじゃない生活文化をきちんと維持しながら、日本社会をずっと続けていける産業構造とか、あるいは社会構造とか政治構造みたいなものを今後再構築していけるかは、時間との勝負じゃないかな。〉

〈「国や政府ができることなんて、ほとんどない」
東:しかし、若者の「嫌消費文化」みたいなものは、日本の内需をどんどん小さくしていく方向には行きますよね。
佐々木:それって昔から、そうなったらいいってみんなが言ってたじゃないですか(笑)。
東:ところがその結果、本当にそうなったら今度は、内需が小さくなりすぎてまずい、不況だみたいなことになってるわけです。それ大丈夫なんですか。
佐々木:どうなんでしょう。それこそ新聞は、高度経済成長まっしぐらとかバブルのころは、「我々は江戸時代に戻るべきだ」とか言ってたのに、いまは慌てている(笑)。
東:若い世代だと、経済学者の飯田泰之さんたちのグループがそうですけど、「若い人達が嫌消費文化とか小さく纏まってくとか言っているけど、結局それじゃ無理でちゃんとした経済成長を考えなければいけない」という考え方の人が出て来ている。
佐々木:そもそも内需だけで維持できるかどうかも、難しいですね。ものすごく小さな国になれば可能性があるのかも知れないけど、これだけの規模の国でしかも企業数がすごく多くて、この産業構造をある程度維持したまま、それを内需だけで何とかしていくのは結構しんどい。
東:じゃあ、クリエイティブ国家とかで、著作権ビジネスで海外展開。いや、それだけじゃあ不可能ですね。あとはグリーン・エコノミーですか・・・。グリーン・エコノミーとかクリエイティブ何とかしかないですね、最近の日本って。
佐々木:日本だけじゃない。アメリカでオバマ大統領は全然評価されてません。ドイツやフランスも先進国はこぞって政権に対する評価はすごく低い。何やっても貧困層は救えない、格差の問題は無くならないという状況に陥っている。
 これは結局グローバリゼーションの結果です。その分、富がインドや中国に移転してそこで中流層が台頭してきているわけです。そもそも国民国家という概念自体が崩壊しつつある。完全にグローバルな世界国家の中で日本の貧困層とインドの貧困層は同じような生活をし、日本の金持ちとインドの金持ちも同じような生活をする方向に行かざるを得ない。
東:当然、そうなるはずですね。
佐々木:そうすると国、政府が出来ることって、もうほとんど無い。
東:実は僕もそう思っているところがあるんです。
佐々木:それを言ったら怒られますよね。
東:非常に怒られる議論ですね(笑)。
佐々木:この前、テレビの番組に出たときにそれを言ったら、ものすごくムッとされてシーンとなってしまった。司会者に「国境をなんて考えてるんですか」って怒られた。
東:国境は残るだろうけど、グローバル資本主義はそれを超えて来ますからね。
佐々木:こういう話をすると、アメリカの資本家だけが金儲けする仕組みはしからんと言うんだけど、アメリカも例外ではない。アメリカも同じようにみんな巻き込まれているわけです。どの国も勝っているわけでもなく、例外なく同じように巻き込まれている。
東:20世紀には先進国だけが豊かで、第三諸国に膨大な貧困層がいた。ただそいつらの姿は見えなかった。それが全部ガチャガチャガチャッと混ざって、各国内に貧しい層が出来るようになった。本質はそれですね。世界が悪くなってるわけでもないし、アメリカの帝国主義というわけでもない。
佐々木:少なくとも中国やインドの今まで貧しくて今や中流となっている人たちは、ハッピーだって思っているのは間違いないですよ。
東:中国で貧困層がすべてなくなった、中国が日本より上に行ったという話ではない。同じような状態になったというだけ。その状態はある程度受け入れざる得ないと思います。
佐々木:結局、日本に住んでいる旨味がどんどん無くなっていくんでしょうね。そういう状況の中で、自民党政権は嫌だと民主党政権に行く。民主党政権も何もしてくれないからと、今度はみんなの党に行く。みんなの党が仮に政権を取ってもやっぱりダメで、延々に政権交代だけが続いていく。そんな状況になる可能性が十分ある。
 そうするとさっき東さんが仰っていたような、新しい政治システムとか、イシューごとにきちんと考えていきましょうという問題と、グローバルに巻き込まれて国が何も出来なくなっていく、どうやって我々が受け止めるのかっていう問題が絡み合ってくる。これは大変な時代ですよ。

ガバメント2.0が実現できる可能性
東:まさにそれを津田さんも言ってたんです。
 アメリカだとネットワークに繋がっている電話は全部「スマートフォン」と呼ぶらしくて、基本的にインターネットに繋がっていない携帯電話がまだ多数を占めている。だからガバメント2.0(政府2.0)みたいなアイデアはアメリカで普及といっても、そもそもネットに繋がっていない携帯が多いからどうしよう、みたいな議論になる。
佐々木:なるほど。
東:それに対して日本はガラケー(ガラパゴス携帯)とか言っているけど、基本は全部ネットに繋がっている。このインフラはやっぱり強力だっていう話を津田さんが言っていた。まったくそうだと思うんですよ。
 日本は国土の大きさが人口の割に狭い。どこに行ってもネットに繋がる。富士山の上はさすがにネットは繋がらないのかな?
佐々木:案外見通しが良いからつながるもしれません。
東:普通は山頂とかでも繋がります、平気でね。で、普通にネットできる。そんな国、そうは無いですよ。そう考えると、このくらいの規模の国では日本は、初めて完全な電子国家化というか、ガバメント2.0みたいなものを実装できる技術的インフラが整っている唯一の国なのかも知れない。
佐々木:それはそうですね。
東:そういうところにポジティブな可能性を見ることができる。
 またオタクというかギークというか、そういう奴らもいっぱいいるわけです。それが利点だと思うんですね、僕は。
佐々木:やり様によってはできますね。それこそ考え方を変えればいいんじゃないでしょうか。
 政府がITのシステムを発注するとき、あるいは大企業がシステムを発注するときに、何で未だに富士通やNECや日立に頼むのか。渋谷辺りに行けば優秀な技術者がいくらでもいる。NHKオンデマンドは何であんなに使い難いのか? NTTみたいな大企業が作っているからだ、という話もあるわけですよ(笑)。
東:ハハハ。
佐々木:そういうものをガラガラポンにする。優秀なウェブの技術者とかIT業界の優秀な人たちは山のようにいるわけです。こういう人たちと電子政府のようなクリティカルな国の基盤が繋がるような仕組みを持つといいんじゃないかなと僕は思うんですよ。でも、そういうのが全然なってない。
 毎年、札幌と宮崎でIVSというベンチャー企業の経営者が集まるイベントがあって、500人から700人参加者がいるんです。5月に札幌にそれを取材に行って来たんですけど、かつてはソーシャルメディアとかいろんなことに取り組んでいたウェブのベンチャーは、結局食えないわけです。
 ソーシャルメディアは儲からない。かといって銀行の決済とか生活シーンに使えるサービスに行こうと思っても、そこはもう既得権益で全然入り込めない。結局みんなソーシャルゲームに行っちゃってる。
東:なるほど。
佐々木:ソーシャルゲームは確かにそれなりに儲かる。でもそこに行って終わっちゃうのかと思うと、ちょっと寂しい。せっかく優秀な人たちがたくさんいるのにね。
 そうは言っても食えないという状況の中で、そんなことやるなって僕なんか言うのはおこがましいことはわかっています。でも、そこは是非頑張ってお金を儲けていただいて、その上でもう少しクリティカルのところに切り込んでほしいなっていう感じはしたんですけどね。
東:ソーシャルゲームかあ、それは寂しいですねえ。
佐々木:寂しいですよ。それを何とか変えなくてはいけないと思うのです。。〉

● 東浩紀(批評家・作家) vol.3 「ガラケー日本にこそ電子国家実現のチャンスがある」  | 佐々木俊尚「ブレイクスルーな人たち」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1035

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普天間基地問題 [考えていること]

いつくらいからだっけ、「普天間基地異説問題」が連日マスコミで取り上げられるようになったのって?
ぼくなんかがこの問題の取り上げられ方についておかしいなぁと思うところは、問題の決着についての鳩山総理の優柔不断ぶりを責める方向でもって、マスコミも世論も議論をしているように感じるところだ。
そもそもこの問題の本質は戦後から今日まで、沖縄に米軍基地を押し付け続けて、日本の防衛のあり方の考え方の枠組みを自民党政府に任せっきりにしてきたというところにあるんじゃないだろうか。
本当はこれを機に国民一人一人が「日本国の防衛のあり方」について自分なりの考えを持つように心がけなくてはいけないと思うのだが。
安易な「米軍基地沖縄固定による抑止力論」だったりするのとかっていうのもどこか間違ってるように思えるし、いわゆる「非現実的な非武装中立論」のままでもいけないのかもしれないしね。
とにかく、「国の防衛の考え方は政府にお任せして、自分の住む地域にだけは軍事基地的なものを持ってきてもらうのは何が何でも“反対!”」という無責任な考えだけは持ってはいけないんだと思う。
日本国民は長年軍事基地の負担を沖縄に背負わせてきたという意味において、だいぶ失礼してきていると思うけどなぁ。
(基地負担と引き換えの経済的優遇策無しで沖縄が自立して行けるかどうかという問題はまた別に地元の人間が真剣に考えなければならない問題だとは思うけど)

「自己責任」とか「権利意識」とかについて何となく思うこと [考えていること]

「今日の日本の社会が悪くなっている」と語る人達が原因として挙げるものとして、「自己責任意識」とか「権利意識の強さ」といったものがあるように思うのだけど、もし悪くなっているとしたら、ぼくなんかはそういうのじゃない別のことが原因なんじゃないかなと思ってしまうのだけどどうだろうか。

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“ずるさ”について [考えていること]

 例えば、宮台真司さんが言ってた(ぼくはラジオとかで聞いた)「官僚にはズルサがある、そのずるさを(民主党の)政治家は上手く利用したほうがいい」というときの“ずるさ”というのは、「目標を達成するためには細かいところにまで“策を弄する”」という意味になるだろうか。その「目標=官僚自身が私腹を肥やすためのものではなく、“国民”“国益”に資するためのもの」にその“ずるさ”を用いるように仕向けるということが大事だと。
 “ずるさ”=「細かく策を弄する」。

 そういうのに対して、例えばぼくなんかが思ったりする「あの人は“ずるい”から嫌いだ」というときの“ずるさ”というのは、「あの人は信用できねぇ」という思いにつながるような意味ということになるだろうか。

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ぼくのなかでの「左翼な人」と「右翼な人」のイメージとか [考えていること]

 その人の「自分が、自分に対してとる態度と他者に対してとる態度の違い」によって、その人が“いい人”か“ダメな人”かって分かるような気がしないですかね。
 それを図る物差しというのを、例えばぼくはこんな風に考えてみたりしてるんですよね‐“自分に厳しい”“自分に甘い(優しい)”“他者に厳しい”“他者に甘い(優しい)”。
 ま、“”自分“”というものを基準値として他者に関わるわけだから、「自分に厳しく、他者にも厳しい」とか「自分に甘く(優しく)、他者にも甘い(優しい)」というのは、普通だと思うんですよね。
そこで、人間として一番良いのは「“自分に厳しく、他者には優しい人」ということになり、人間として一番ダメなのが「自分に甘く、他者には厳しい人」ってことになると思うんです。

 人の性格というのをベースにして極簡単に分類したぼくの仲でのイメージでは、「“できるだけ他者に優しくありたい”というのが左翼」“他者にそうそう甘い顔はしてられない”というのが右翼」、という感じがあるんだけど、どんなもんでしょうか。
 もし自分が友人知人にするなら左翼、っていめーじがなんとなーくあるんだけど、そんなこともないですかね。
 左翼のイメージって、「左翼は甘いんだよ!」って右翼の人からは突っ込まれる感じってあるんですが。

 ま、右翼も右翼で、「ちゃんとした右翼」ならいいかなぁとも思うのですが、「似非右翼」というのが世の中には多くいるような感じがするのは困ったことだなぁと思うんですが。

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語呂合わせ [考えていること]

兵器ビジネスを生業にしている人達って
自分が作った兵器で人が死んでくのを目の当たりにしても
心が苦しくなったりはしないんだろうか。
そのへんは“平気”ビジネスなのかなぁ?

日本人て“評論家体質”なんじゃないだろうか?と思ってるんだけど、どうだろうか [考えていること]

職業人としての「評論家」「批評家」というのは“プロフェッショナル”としてその役割を認めて評価するけど、一般人の“評論家体質”というのをぼくは評価しないな。「言うだけ」なら“ただ”だし“誰でもできる”と思うから。

 というのも、例えばこんな言葉が気になっているのだ。前回のサッカーW杯のあった年に聞いた言葉で、スポーツライターの人の言葉だったと思うのだが。
 「W杯が近づくと書店にサッカー関係の本が沢山並び、そういうものを読んだりして日本人は多くの知識を身につける。おそらく世界のどの国の国民より一番サッカーについての知識を持った国民ということになるだろう。しかし、それだからといって、“日本サッカー”が強いかというと、そんなことはないわけで…」。
 “国民性”を表した言葉のようにぼくは感じたのだが。

チベット問題 [考えていること]

 中国のことに関しては、今は四川省大地震のことで大変だけど、その前は「ちべっと問題(騒乱?暴動?蜂起?)」がよく取り上げられてた。
 これについては、日本では、テレビにも出る影響力のある言論人が「チベットに支援を」と呼びかけたことも関係あったのか、また欧米諸国の動きに倣ったためか、予てからの嫌中感情も手伝ってか、日本にはもともとチベット文化のファンが多いというのがあったのか、チベット擁護の世論が結構高まっていたような印象だった。それは、「国益に鑑み、事を荒立てるべきではない」といった感じの政府のスタンスにも関わらずである。
 そのことはそれで良いのだろうと思う。
ただ、日本人てこれまで、そんなにどこかの国の独裁政権に怒ったり(ま、北朝鮮のことは記憶に新しいが)、少数民族弾圧に対して支援の機運が高まったりしたことってあまりなかったんじゃないかなとか思うので、今回のようにこれからも、国家というものの負の側面(支配装置としての暴力性、弾圧性)に敏感な感受性をもって、世界のあちこちに存在していく独裁政権と弾圧される少数の人達に心を配って行けるようになるといいんじゃないだろうか。それでないと、「なぜ、中国とチベットだけ?」ということになってしまうと思うから。


※ 何となく参考になりそうなwebページ

マスメディアの出鱈目な報道に釘を刺しました - MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=636

中国がチベットを手放せない理由 - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
http://www.videonews.com/on-demand/361370/001282.php

解説委員室ブログ:NHKブログ | 視点・論点 | 視点・論点 「チベット騒乱と中国」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/8077.html

マスコミのお仕事って? [考えていること]

 倖田來未さんが全国ツアーライブ開始をもって音楽活動再開したというのをいくつかのワイドショー系で聞いた【日テレは観れない】。
 『とくダネ!』の小倉さんは「そんなにバッシングすることはないんじゃない」(※1)っていうスタンスだったけど、ほかのところは「私達はあの発言により深く傷つけられた、赦せない」ということを言うような一般人に配慮してか(同調もあるのかな?)、結構釘刺しコメント的であったと思う。
 ぼくはこの出来事に関して、今の日本の人々が醸成する雰囲気に怖さを感じる。
一タレントが深夜ラジオで喋った雑談内での単なる間違い知識に対して、「自分(達)に向かって放たれた言葉である」と受け止め、そこに差別意識を見出し、自分(達)が深く傷つけられたと感じ「許すことができない」とまで思ってしまうメンタリティーって何なんだろうな。
(ネットユーザーの中にこういうネタを冷笑的にまたは正義漢ぶって取り上げる人が一定数いるのは分かるが)本人のしたことの大きさと、メディアや一般人の批判的リアクションの大きさのバランスの悪さ、ギャップには引いてしまう感じがした。


 朝青龍が空港で普段着姿をマスコミの人に写真に撮られたことに激怒し消去させ、その余波で別の日に別のマスコミの人に「死ね! このヤロー!」と言ったとか言わなかったとかというニュースもあった。
 マスコミの人達は「横綱にあるまじき言動である」として怒ってたようだけど、(「あるべき横綱像」ってことにあまり関心がぼくにはないってのも関係すると思うが)もともと激しい性格の人みたいだし、日本人的メンタリティーで育ってきたわけでもないし、とかぼくなどは思うが。
 でも、何より(もし言ったのだったら)「本音を言った」って感じするけどな。
 今までにマスコミにあることないこと書かれたり言われたりした芸能人(ま、運動選手もその部類でしょう)の多くが、「死ね! このヤロー!」って思ったり言いたかったりしたかったんじゃないかなって想像するんだけど。ただ、人気商売だから言えないだけじゃないのかなぁ。
 芸能マスコミの人達はさ、相手にそういう風に思われてるかもしれないということを頭に置きつつ仕事するのがある種当たり前なんじゃないだろうかね。
 報道系のマスコミの人なんかはさ、権力を持った政治家とか財界人とか、裏社会の人などから「死ね! このヤロー!」という言葉をぶつけられるくらい、対象に肉薄するような取材ができたら、むしろ「いい仕事してますねー」【中島誠之助さん風】となるのじゃないかな(本当に消されちゃうとまずいけど)。


 芸能人て、一見華やかでお金を持ってて自由気ままに暮らしてるみたいに思われてんのかなって想像するんだけど、(アメリカとかに住んでて世界中のお客を相手に稼いでいるクラスの芸能人はまた別かもしれないけど、日本を中心としたお客を相手にしてる芸能人は)結構自分の人気に一喜一憂しなきゃならないくらい弱い立場なんじゃないかなってぼくなんかは思ってしまう。人気無くなったら「飯の食い上げ」的な?(そこまでひどくはないかもしれないが)。そういう立場の人達をみんなでぶっ叩いていいものなのかなぁと心配してしまう。(「芸能人の心配」というより根本的には「集団ヒステリーみたいな社会への恐怖心」が言いたいことではあるんだけど)


 マスコミの人達はさ、「世間一般の人達の感覚」に目を向けてるとか、そういうのに配慮して意見を出してるって思ってるかもしれないんだけどさ、「世間一般の人達の感覚」ではさ、以外にマスコミも信用されてなんかいないんじゃないかって思うよ
 ネットなんかではさ、「マスコミは信用できない」「ネットの情報のほうが正しい」っていう発言見るし、「マスコミ」のことを「マスゴミ」と揶揄する表現もあるし。
 一般の人に「マスコミ規制に関するアンケート」とかとったら、(「自由」や「権利」などよりは「秩序」「節度」にDNA的に価値をおく日本人としては)「ある程度は規制が必要」という意見が大勢を占めるのではないかな。
 ぼくなんかは「権力を監視し、弱者的な人を守る命綱的役割」をマスコミに期待してるから、「規制」とかには賛成しないけど、国民の意見の大勢が「規制を望む」とかになれば、それを権力者達に上手く利用されちゃうんじゃないかと危惧するのだが。


【もう少し書こうかと思ったけど疲れたので今回はこの辺で】

給食費未払い問題のこと [考えていること]

 以前「給食費を払える経済状況なのに難癖をつけて払わない親が出てきている」という話題でマスコミがにぎわってたことがあった。

 今の人って自分が価値を認めたもの、拘りの物やサービスには金に糸目をつけないが、それ以外のものはなるべく安く済ませたい、買い叩きたい、できるなら只のものを利用したいっていう金銭感覚なんじゃないかなって思う。

 それは社会のせいっていうか、時代のせいによるところが大きいともいえるんじゃないだろうか。

 昔なら、どこの店で買っても低下は同じ。銅製品同価格、メーカー希望小売価格がきっちり適応されてたというか。同じテレビを買うならどこの電気屋さんで買っても値段は一緒、だから近くのお店で買う、ちょっとおまけを付けてもらうくらいのサービスで買うとかがあったんじゃなかろうか。
 今はどこの大型店が一番安いとか、セール期間ならいくらで買える、在庫処分なら…、ネットショッピングのほうがいくら安いとかって具合だから、消費者が徹底的に安さを追求できるというか。だから、ごねれば(上手く交渉すれば)安くできる、只にできるんじゃないかって思ってしまうこともあると思う。
 そこで始末に負えないのが「お客様風邪を吹かせる」っていうやつでしょうか。自分の立場の強さを利用する感じの。
 その昔、「お客様は神様でございます」と言ったっていう三波春夫さんも草葉の陰で苦笑いするかも。

 こういった場合の考え方として、「学校給食」というものに保護者の人たちはどのような「価値」を求めているのかという視点も必要なのではないだろうか。
 義務教育のカリキュラムの一貫として(今流行りの)「食育」を盛り込むというのなら、給食費も全部教育予算で面倒みるっていうのも“あり”な話だと思うし、「消費者としての自由選択の一つ」というのなら、学校は売店やカフェテリアを用意するくらいで、お昼に何を食おうが、弁当を作って持たせようが、コンビニで買わせようが、昼食を抜こうが、家に戻って食べさせようが、子供の飯の心配は完全に親の責任としてしまうとかも“あり”だと思う。まぁ、これらは“両極”の考え方になるので現実的にはその間の工夫みたいになるのかな。

沖縄(教科書検定問題)ノート [考えていること]

TBSラジオ『ストリーム』10月2日オンエア分で小西克哉さんが以下のようなことを言っていたみたい。

〈“検定制度”は「それに合格しなければ実際に教科書として採用してもらえない」という意味において“事実上の検閲”だといえるのではないか。
 「誰が検定に関わっているのか」などが新聞を見ても分からなかったのが、『報道ステーション』(テレビ朝日)での調査報道を見て知ることができた。
 審議会には日本史の近・現代史の専門家は4人しかいない。その中の一人が「専門家にもっと話を聞けばよかった」と述べた。
 ある本に「軍による命令(物的証拠)はなかった」という記述が一箇所出てくるのを削除理由にしているということだが、その本の著者は「自分の本の趣旨に反する引用のされ方である」と説明している。
 文科省の調査官が揃えた資料を基に審議会のメンバーは議論するという仕組みになっているが、その調査官の一人が「新しい歴史教科書を作る会」の研究グループに属していたというのが国会の答弁で明らかになっている。
 教科書検定では、表向きは「政治的介入はしてはならない」ということになっているが、時の政権の思想、政治姿勢と、それに沿った形でその陰で微妙に暗躍する小役人の動きなどがあるから、実際には微妙に政治的影響を受けてしまうものになっている。
 だから“検定制度”自体無くしたほうがいい。
 先進国として“検定制度”があるなんて恥ずかしいことだと思う。(教育委員会などに任せて文部省的なものはいっそ無くしてもいいのではないか)〉↓
http://tbs954.cocolog-nifty.com/st/2007/10/102_6bdf.html

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福田総理 [考えていること]

 ぼくは今回の総裁選は福田さん贔屓だったなぁ。

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伝統を守るって? [考えていること]

 連日取り上げられてた「朝青龍問題」でTVのコメントなど聞いてたら、朝青龍とか相撲協会の人に対して、「説明しろ、説明しろ」と馬鹿の一つ覚えみたいに言ってたのが耳についた気がしたのだが、相撲取りの人はあまり喋らないのが昔からの「美徳」とされてたのじゃなかったっけ?「黙して語らず」ですか。
 相撲中継内での勝利者インタビューでもハァハァと息遣いの荒さばかりが目立ち、取り組み内容については細かいことは語られないというのが定番だったような。普段はお喋りな人でも、公の場では無口であることが良きこととされていたようだったが。
 時代は変わったの?でも、「朝青龍はなっとらん!」と言う人たちのいう「伝統」は大事にされなきゃならないの?
何が大事に継承されるべき「伝統」で、何が改められるべき「悪習」なんだろうか。


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